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町政情報

塙町の成り立ち

塙町の成り立ち

(平成2年塙町教育委員会刊行「時代(とき)の響き」より抜粋して再構成)
 
~原始時代から昭和の合併による塙町の誕生まで~

塙町の原始時代は、計画的な発掘調査がされていないため詳しいことはわかっていませんが、各遺跡から採取された縄文土器には東北的性格を持ち、関東の影響もみられることから、新しい関東地域からの文化が、東北に搬入される道として、縄文時代以降踏み固められた道があったことが推測されます。
  縄文式土器

昭和48年(1973年)12月、湯岐羽原谷地内で町道前田・上石井線の道路拡張工事中に、偶然土器が発見されました。厚さ30センチの耕作土、その下60センチ程の有機質黒色土、道路面まで約140センチは黄色粘土層から出土したものです。東側の断面には、住居跡とみられる遺構も発見されました。
 
この土器は、斜めの縄文が肩部から胴部全体に施され、肩部より口縁部がわずかに直立して外反、底部一杯に焼成後の穿孔されたものと櫛目沈線の施文が施され、退化した姿であるものの、釣手部の突起に蛇の文様とも考えられるものが見られます。 このほか、町内では久慈川を望む台宿や伊香の台地などで、多数の縄文土器片や石器類が出土しています。
 
「日本後紀」の弘仁二年(811年)4月22日条に「廃陸奥国海道十駅更於通常陸道置長有高野二駅為告機急也」とあります。「陸奥国の海道(浜通り)の十駅が廃止され、かわって常陸に通ずる久慈川沿いの道に長有・高野の二駅が設置された。機急を告げんがためにこの措置がとられた」という内容で、陸奥国府多賀城(現在の宮城県多賀城市)への連絡は、海道経由よりも東山道(長有・高野など)を経由する方が早かったことがうかがえます。
 (古代の道については、国土交通省のホームページ「古代の道 七道駅路」をご覧ください)
 
また「延喜式」には本町に関係する記述として「高野に駅馬二匹をそなえること」とあり、承平五年(935年)の「和名抄(和名類聚抄)」には、「常世」「高野」の郷名が書かれています。
 
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式:校訂.下巻のコマ番号131に、以下のような記述があります。
 
陸奥国駅馬 雄野。松田。磐瀬。葦屋。安達。湯日。岑越。伊達。篤借。柴田。小野各十疋。名取。玉前。栖屋。黒川。色麻。玉造。栗原。磐井。白鳥。胆沢。磐基。各五疋。長有。高野各二疋。
 
昭和42年7月、山林を耕地に造成中、直刀二振りと鉄鏃(てつぞく。鉄製の矢じり)、鉄斧が出土しました。(大字伊香・高野里古墳)古代の塙には、既に貴重な副葬品を埋葬することのできる力を持った人物がいたことを示しています。
 
鎌倉期の領有関係は詳しくわかっていませんが、南北朝以後は、文治五年(1189年)の源頼朝の奥州合戦の恩賞により、結城朝光に白河などが与えられ、現在の塙町を含む地域(南郷)もその領地となりました。16世紀に入ってからは、常陸佐竹氏の手が南から伸び、16世紀末頃には、白河領全土が佐竹氏の勢力圏に編入されました。この間、塙町の主要な政治・軍事的拠点は羽黒館(現在の羽黒山)でした。しかし白川氏・佐竹氏の本拠とはならず、当町域を含む高野郷の中枢は、棚倉赤館でした。中世文書では、伊香、西河内などの地名の記述が確認できます。

羽黒山を久慈川から
 
久慈川の下流側から羽黒山を望む。  右手に見えるのは道の駅はなわ

 
豊臣秀吉の奥州仕置の後、関ヶ原合戦で豊臣側についた佐竹義宣が、慶長七年(1602年)に出羽国秋田に移封されるまでその支配下におかれ、南郷と言われていた当地域は幕府に収公され、幕府の直轄領・天領となり、幕府代官彦坂元正が慶長十一年(1606年)まで支配しました。
 
慶長八年(1603年)、立花宗茂が、寺山館から二万石加増されて赤館城主となりましたが、元和六年(1620年)旧領筑後柳川(現在の福岡県柳川市)に復しました。当地域の村々は、近世初期から幕領として代官が支配していた村と、棚倉藩が支配していた村とに分かれていました。元和八年(1622年)丹羽長重が常陸古渡(現在の茨城県稲敷市古渡)から五万石で入封(土地を与えられて領地に入ること)し、棚倉城を築城して城下町の整備を行うとともに、当町域の旧村はすべてその支配下におかれました。 
 
寛永四年(1627年)内藤信照が近江国(現在の滋賀県)より入封し、正保四年(1647年)に領内総検地を実施し、藩体制が確立されました。内藤氏は、信照、信良、式信と3代78年にわたって支配し、宝永二年(1705年)に駿河田中(現在の静岡県藤枝市)に移封されましたが、同地より太田資晴が入封し、享保十四年(1729年)、上野館林に所替えとなった時に、白川郡のうち67ヶ村、24,590石余、その他常陸国多賀郡、陸奥国菊多郡・磐前郡などあわせて五万石余りが幕府に収公されました。
 
初代の代官は岡田庄太夫で、古殿町竹貫に陣屋を開きましたが、同年9月に会田伊右衛門に代わった時、塙に代官所が開設されました。上渋井、常世中野、下中塚、田野作、川下、川上の各村は天明四年(1784年)に棚倉藩に支配替えされました。塙、下渋井、竹之内、板庭、上中塚、木野反、台宿、伊香、植田、真名畑、上石井の各村は、幕末の一時期、磐城平藩(現在のいわき市平)領となった村もありましたが、慶応四年(1868年)4月まで140年余りの間に、45人の代官によって支配されました。
 
23代目の代官を務めた寺西重次郎封元は、長期間(寛政四年(1792年)~文政十年(1827年))、この地方の行政に当り、民力向上へ尽した寺西代官は、桑折への離任が決まった際、塙住民から留任の願書が出されており、支配地内には、生祠(せいし。徳のある人物を崇拝の対象として祀った祠)を建立し、祭神ともされた程の人物です。江戸時代では珍しい代官の一人と言われています。
 
寺西代官(時代の響きから)その業績は、農村人口の増加・荒地の防止回復生産向上とした当時の緊急施策であり、人心引締めによる社会風潮の刷新であり、時勢に反した容易ならざる行政でした。貧しい農民に仕事を与えるため、現在も塙町に残っている向ケ岡公園の築造を、窮民救済のための公共事業として行い、住民を雇いあげ、賃金を与えました。
 
また、寺西代官の施策は、自領内のこととせずに周辺十一藩の領主と協議し、広域一体とした革新を目指した、一歩進んだ行政でした。
 
代官所は慶応四年、奥羽鎮撫総督府が最後の代官、多田銃三郎の退任願を認め、仙台藩に接収させたことにより終りを告げました。棚倉藩領の村々は、天明四年に棚倉藩に支配替えのあった前記の村と、堀越、西河内、東河内、常世北野、湯船、山形、田代、大畑、前田、大蕨、湯岐、那倉、片貝の各村でした。
 

なお、太田資晴の移封後は、上野国館林(現在の群馬県館林市)より松平武元が入封し、延享三年(1746年)に旧領館林に移封。遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)より小笠原長恭が入封。息子の長尭、孫にあたる長昌と、三代にわたって在封し、文化十四年(1817年)、肥前国唐津(現在の佐賀県唐津市)に移封すると、遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)より井上正甫が入封。家督を継いだ正春が天保七年(1836年)館林に移封となり、石見国浜田(現在の島根県浜田市)より松平康爵が入封。康圭、康泰、康英と四代にわたり在封し、慶応二年(1866年)武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に移封すると、白河より阿部正静が入封しましたが、同四年の戊辰戦争に際して奥羽列藩同盟に参加。同年6月24日奥羽征討軍の攻撃を受け棚倉城は落城。丹羽長重の棚倉城築城(寛永元年・1624年)以来、阿部氏まで八家一六代の歴史は幕を閉じました。
 
戊辰戦争の最中である明治元年(1868年)8月に磐城平民政局が設置され、同年12月、当地域の全村が棚倉藩に交付。翌二年の版籍奉還により阿部基之助が藩知事となりました。
 
明治四年7月、廃藩置県により棚倉県所管となりましたが、同年11月2日、合併により平県に所属、同月29日、平県は磐前県と改称されました。当地域は、明治五年5月、第五大区の小四区から小七区に分属し、明治六年の改正で小三区、小四区と小六区、小七区に、明治七年の改正で小二区と小三区に属しました。明治九年5月に福島県が成立すると、同年12月の大小区改正により第十八区となり、明治十六年2月に川上村他19ヶ村、植田村他8ヶ村、東館村他10ヶ村の戸長役場(こちょうやくば。戸籍などの事務を行った役所のことで、現在の町村役場)にそれぞれ属しました。
 
明治二十二年(1889年)4月、町村制施行により常豊村(塙・下渋井・上渋井・竹之内・堀越・東河内・西河内・常世北野・常世中野)、笹原村(川上・板庭・中塚・田野作・田代・山形・大蕨・那倉・木野反・湯岐・片貝)、高城村(台宿・伊香・植田・真名畑・茗荷・内川・関岡)、石井村(上石井・中石井・下石井・戸塚)が成立しました。この合併の際には、戸数・人口・田畑面積・地価等の資力調査等により近隣町村を以て新しい村が生まれ、昭和三十年の町村合併まで続きました。
 
昭和二十三年には、常豊村が町制施行して塙町と改称しました。
 
昭和二十八年に町村合併促進法が公布され、県の合併計画に基づき、昭和三十年3月10日、塙町と笹原村が合併して塙笹原町が誕生しました。昭和三十年3月31日、塙笹原町に石井村と、高城村のうちの台宿、伊香、植田、真名畑が合併し塙町が誕生しました。昭和三十二年には、旧石井村の中石井・下石井・戸塚の3集落が分町して矢祭村へ編入され、昭和三十四年に棚倉町の一部を編入。昭和四十四年に矢祭町との境界が変更となり、現在の塙町が誕生しました。


 九つ山から
 
 塙町を南側から撮影。久慈川が町のほぼ中央を縦断している。西に台宿、伊香、
 植田、真名畑などの高城地区、東に常豊地区、笹原地区が広がる。この画像で
 は見ることができないが、中央に見える町並みの東側に羽黒山がある。

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